とある出版社で勤務していた頃、週刊誌チームで働いていた私は、ある時独立を決意し、退職することになりました。

同僚はいろいろな餞別をくれたのですが、転勤したてのSという物静かな女性は、今でも思い出す小さな品をプレゼントしてくれました。
それは何と、幼児向けのおしゃぶり。ゴム製で乳頭の形をしたものでした。
当時の私は、ヘビースモーカーで(それは今でも変わりませんが)彼女は笑いながら、「どうしても吸いたくなったらそれを吸って」と笑顔で笑った居ました。
私は、突拍子もないプレゼントに、しかも女性から乳頭型のおしゃぶりをプレゼントされたので、心の奥底では「ひょっとしたら」と訳の分からない期待をしてしまっていました。
しかし退職の当日まで、彼女からのお誘いもなく、内心少し残念な気持ちを持ちながら新しいオフィスで働き始めたのでした。

会社をやめてから3ヶ月ほどして、元の同僚から電話があって、Sさんが死んだと知らされました。

葬儀にでかけた私は、かつての同僚から意外な話を知らされました。
私が退職した頃、彼女は新婚であったこと。
ご主人の転勤にあわせて、自分も転勤を申請し、ご主人と一緒に同じ街で働こうとしたこと。
私が退職するときには、彼女はガンに罹っており、若くて進行が早く、放射線治療や薬物治療は不可能だったこと。
ご主人に形見として、子供を残そうとしたけれど、子供が生まれるまで時間がなかったということ。

彼女が私にくれたおしゃぶりは、彼女の生きるための希望だったのでしょうか。
あるいは、自分には不可能となった子育てとの決別だったのでしょうか。
照れながら、おしゃぶりを受け取る私を見て、笑顔で健康に注意するようアドバイスしてくれたSさんの笑顔の奥底には、多分私が一生知ることの出来ない彼女の悲しみと、そして他人への愛があったのだと思います。
今でもなんだかすごく切ないです。
葬儀ではご主人が、人目も憚らずに泣き崩れておられました。
今でもたまにSさんを思い出します。

私は、いつまでたってもだめな人間です。
あなたほど、強く生きられません。でもあなたに出会えてよかった。
ありがとう。
本当にありがとうございました。

*今もヘビースモーカー 50代 男性 大阪*